ネットスラングで「〇〇に脳を焼かれたやつら」みたいな言い回しをします。
衝撃的な経験によって、脳が、それと同じ経験を求める状態に固着されてしまう(志向が焼き固められる)といった意味合いです。
餓狼 MOW のバスターウルフの演出に脳を焼かれたやつら(私も)が、 25 年経っても餓狼伝説 CotW の同じ技の見た目に文句を付ける、という風に現れます。
上品な言い方ではないですが、その言わんとすることはよくわかります。
ネットスラングと村上春樹の融合
というのは、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』( 1985 )と『街とその不確かな壁』( 2023 )にも、ほとんど同じ表現が、同じ意味で出てくるからです。
愛する人を喪失したことで、脳を焼かれてしまった人の物語。前者では、人為的に脳を焼くことも行われます。
「意識の核の照射により、脳内に硬い殻ができる」というような言い方をしています。脳を焼き固めてしまうイメージと同じです。
村上春樹作品は、結局のところ、そのトラウマ的体験を、繰り返し変奏・即興演奏していると言えます。
『納屋を焼く』も、焼くという行為は、あることに固着して繰り返し行うことに通じている、と考えます。
脳を焼かれたことを作品化して仕事をつくる
村上春樹自身にも、おそらく、喪失の経験で脳を焼かれた経験があると個人的に想像します。
その志向で小説を書き、仕事にしているのですから、「焼かれた」こと自体は、いいことではないかと思うのです。
自分の求めるものがはっきりしているということなのですから。
それが読者にも通じるよう、小説としてつくりなおす技術はもちろん必要ですが。
一受け手として何か作品に触れて、深く感動するときも、その作品が「脳を焼かれた」経験にマッチしているからだと考えられます。
でも意外に、脳を焼かれたことを忘れてしまっているもの
村上春樹作品の主人公たちも、過去の恋人や妻との別れに脳を焼かれているのですが、多くは、そのことを忘れてしまっています。
でも無意識に求め続けていて、その方向性が物語を進めていきます。
私たちもなんだかんだ、 10 代、 20 代のときに、恋愛に限らず何かに「焼かれた」体験をしているはずなのに、それを忘れてしまっているのではないでしょうか。
同じものに焼かれた経験は、自分だけでなく、他の誰かにもあり、その「同じもの」を通じて、私たちは交流している。
その通じさせることには、作家のような技術がいりますが、これはいろんな方法があるでしょう。
それ以前に、何を他人と同じものにするか、思い出し、考えるのは自分自身にしかできません。
今、見聞きして感動するものが、あなたの意識の核につながるヒントです。自分ならではの特徴を考える際に、使ってみましょう。
昨日のレジャー
大船観音寺(鎌倉市)。お祭りをやっていて、猿回しを見たら、子どもたちがけっこう喜んでくれました。神社仏閣などの敷地内というのは、なんだか気分がいい場所です。