終わりが見えてきたらやめどきである

村上春樹の長編小説。物語は、いつ終わるか?

内田樹のいうとおり、主人公が「これからやるべきこと」がわかった時点で、終わります。村上作品に限らず、ストーリーものはみんなそうですが。

別に、主人公たちの寿命まで読者が見届ける必要はなく、この先は、言ってしまえば、二人は幸せに暮らすんだろうなあーと読者もわかったところが、物語の終わりです。

何が起こるかわからないあいだだけ、発見があるあいだだけ、物語が続いていきます。

小説のようにきれいに終わるものは例外

自分の中で、いままでいちばんきれいにやめられたなあーというのが、ドラゴンクエストXI(11)でしたね。

7歳のときの1作目からプレイしていて、37歳のときの11作目のエンディングの感動といったらありませんでした。

「30年間プレイしつづけてくれたみんな、ありがとう」という開発者からの暗黙のメッセージが、ひしひしと伝わってきたからです(もちろん7作目と10作目はやってないんですけど)。

いままでドラクエをやっててよかった。そう思わせてくれたドラクエイレブンが、堀井雄二・鳥山明・すぎやまこういちの3人が存命中の最後の作品となりました。クリアしたらニンテンドー2DSごと、ぱっと売り払いました。

ある種の悟りを得られれば、やめられる

こういうきれいに終わるものは例外で、実際には、コンテンツ消費というのはいつまでも続くものです。

しかし、お金も時間も有限な以上、これをどうやめるかが、人生においては重要に思います。あくまで娯楽なので。

で、コンテンツ系はだいたいそうなんですけど、予告編というか、宣伝用素材のちょっと見せみたいなもの、すごく良い出来ですよね。あるいは導入部とか、お試しとか。

それがいいからと思って本編を購入すると、その入り口部分以上の感動がなかったりします。ジャズのアルバムの1曲目はいいけど……という数十年前からのパターンの繰り返しです。

ああ、コンテンツというものは、このチラ見せ部分が最高なんだな、というのが最近の悟りでした。

お金を払ってもそれ以上のものがないとわかれば、お金と時間の浪費をやめられます。いや、好きならいいですが、「そろそろやめなきゃな」とお思いならです。

悟り、見極めができるまでは、やるしかないのかなと

自動車教習で、路上教習に出られるかどうかの「見極め」という用語が、なんだか新鮮でした。

確かに、その人が本当に路上に出られるかどうかの判定は、目にはっきり見えるものではありません。でも、教官はいちおう、「もういいか」と判断してくれます。

悟ってやめる場合も、別に唯一正解のポイントがあるわけではなく、いままで自分の外にあったゲームのプログラムが、自分自身の中に構築されて、自分自身がソフトウェアのようになれた状態といいますか。

自分がExcelの関数のように、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の計算士のように、外部からの入力を受けて、自動的に出力するようになったら、終わりが見えてきます。

自分で推論して、ああ、ここから先は繰り返しなんだなと思った時点。そこがやめどきで、でもそこに至るまでは、やるしかないかなーと思っています。

税理士試験もそうだし、終わりのないウィザードリィをいつやめるかもそうだし。

仕事もそうなのか、というと、結果論でしか言えませんが、なぜか私は仕事をやめるつど、その後の危機を回避するケースが多く。ほぼ運なので、こちらは再現性はありませんが。

本当の終わりに直面してからでは手遅れということもあります。
自分の直感(あ、これってやめるきっかけじゃないか? がいくつもあるなど)は大事にしたいものです。